『孔乙己』を読む(十六) 魯迅小説言語拾零(34)

日本語と中国語(417) (72)樹人、作人、建人――周家の三兄弟   孔乙己のモデルらしき人物の話でしたね。もちろんそんな人物をわたくしが知っているわけがありません。紹興酒の話といい、咸亨酒店の話といい、すべてタネ本があります。タネ本の著者は魯迅の実弟周作人。   魯迅の本名は周樹人。樹人には作人、建人の2人の弟がいました。樹人、作人、建人の3兄弟がその名前に「人」の字を共有しているのは、ご存じのように中国人の命名法によく見られる方式です。女性の場合でも、これはフィクションですが、『紅楼夢』の元春、迎春、探春、惜春の「春」の字がこれですね。実在の人物では宋靄齢(孔祥熙夫人)、宋慶齢(孫文夫人)、宋美齢(蒋介石夫人)の、いわゆる宋家の三姉妹の「齢」の字がそうです。   余談はさておき、樹人と作人は人もうらやむほどの仲の良い兄弟でした。1906年に一時帰郷した兄の樹人は、4歳下の弟の作人を連れて日本に戻っていますし、北京でも1917年から2年半ほど紹興会館で同居しています。蔡元培学長の求めに応じて弟の作人を北京大学国文科教授に推薦したのも兄の樹人でした。兄弟はまた協力して日本や欧米の文学の中国への翻訳紹介に努めています。   この周囲もうらやむほどの「周氏兄弟」の間に突如仲たがいが生じ、1923年7月、兄の樹人の方が北京・八道湾の周家の邸宅を出ていってしまいます。原因については兄弟ともに黙して語っていませんが、一説に周作人夫人の信子をめぐる兄弟間の感情的なトラブルがあったとされています。   この信子という女性は姓を羽太(はぶと)といい、兄弟が日本留学中の一時期、3人の留学生仲間と一緒に借りて住んでいた屋敷の住み込み女中でしたが、のちに作人と結婚し、作人の帰国とともに中国に渡っています。ちなみに5人の中国人留学生が共同で借りていた本郷西片町にある二階建ての下宿は、かつて夏目漱石が借りて住んでいたという因縁のある屋敷です。また信子の妹の芳子も、姉の出産時に紹興を訪れたのが縁で、兄弟の末弟の建人と結婚しています。後に離婚。   上の「兄弟間の感情的トラブル」というのは、作人の妻の信子が自分と義兄の樹人との仲を疑わせるような虚偽の言を発したのを作人が真に受けたことによるらしいのですが、確かなことはわかりません。   いずれにしても、以後、兄弟の仲は兄の死に至るまで修復されることはありませんでした。 (73)《鲁迅的故家》《鲁迅小说里的人物》   和解のないまま1936年10月に魯迅は55歳で世を去ります。   翌37年7月日中戦争勃発、多くの大学が戦禍を避けて奥地へ疎開します。北京大学は疎開組と残留組に分かれ、周作人は北京に残ります。日本女性と結婚し、日本文学や日本文化に造詣が深く、親日的であったところから漢奸のレッテルを貼られ、戦後は不遇の日々を余儀なくされます。   そんな不遇の日々の中で周作人は、上海の「亦報」という新聞に周遐寿の筆名で魯迅の思い出や作品の背景などについて連載を続けます。   やがてそれらの文章は《鲁迅的故家》(1952年)、《鲁迅小说里的人物》(1954年)の2冊の本にまとめられますが、その文章は兄・魯迅の人と作品に対する敬愛の念に満ちていて、到底、長年にわたって反目の日々を過ごしてきた人の手になるものとは思われません。兄の死から十余年を経た後の、弟の側からの和解の文章であったのでしょう。  「文革」初期の1967年周作人はひっそりと世を去ります。(執筆者:上野惠司 編集担当:水野陽子)
孔乙己のモデルらしき人物の話でしたね。もちろんそんな人物をわたくしが知っているわけがありません。紹興酒の話といい、咸亨酒店の話といい、すべてタネ本があります。タネ本の著者は魯迅の実弟周作人。
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2014-08-06 11:30