中国の法意識は万里の長城建設時代から変化したのだろうか

日本経営管理教育協会が見る中国 第330回--高橋孝治(日本経営管理教育協会会員)
● 万里の長城は誰が建設したか
北京市郊外から甘粛省まで2700キロメートルほど延々と建造物が続いている。言わずと知れた「万里の長城」である。建設自体に約1900年もかかっているわけだが、建設を始めたのは誰か?当然答えは「秦の始皇帝」なのだが、小学生はふざけて「大工さん」と答えたりする。しかし、実は万里の頂上を現実に建設したのは大工さんではなく、そういう意味での答えは「罪人」である。
● 労働刑+流刑?
古代中国では現代でいう刑事法や行政法など、国家と国民の関係を規律した法律が発達し、民事法など私人の間を規律した法律は発展していなかったと言われている。ここに大きなポイントがあり、法を犯した者に対する罰として強制労働という形で万里の長城が建設されていったのである(ただし罪人「だけ」が建設したわけではない)。
万里の長城の建設記録は『史記』や『風俗通義』などで確認できるが、その中で「受刑者の労働徒刑」として万里の長城の建造がでてくる。しかし、先に述べた通り万里の長城は非常に広大な建造物である。そのため建設には遠くまで行かなければならない場合もあり、単純な労働刑に加え流刑としての要素もあったと言われている。
● ただ働きで建設された
中国は「法律」の国と言われる。そのイメージは律令など、古代から法律というものを生み出していたことに由来するであろう(その一方で現代は「人治国家」など法がない国というイメージを持たれることもまた事実である)。すなわち、万里の長城も古代中国が法律や罪人に対する刑罰の概念を持っていたとういうことの、ある種の象徴なのである。その意味では、万里の長城も古代中国の法文化の一つの集大成と言えるであろう。
しかしこの時代に労働刑として万里の長城の建設現場で働かされることと、現在の刑務所の中で労働に服するということとは、その根本に差異がある。近代における刑務所での労働は、「贖罪」としての意味合いがある。これに対し、古代中国における万里の長城の建設などはそういう思想に基づくものではなかった。つまり、万里の長城建設のためには、大量の対価を与える必要のない労働力が必要だったのであり、そのために罪人に万里の長城の建設を押し付けたとの理解の方が正しいのである。
● 中国の法は民事を扱わなかった
要するに、古代中国は政府の都合のいいように法律を扱っていたと言える。そう考えると、結局先の古代中国の民事法の不存在にもつながる。これはつまり政府が介入しない私人の間の行為には興味がないということである。この点について現代中国は変化したのか、はたまた変わっていないのか…。それは公害防止対策を取らない企業や、政府批判が許されない体制などを見て、読者の皆さまに答えを出していただきたい。(執筆者:高橋孝治・日本経営管理教育協会会員 編集担当:水野陽子)
北京市郊外から甘粛省まで2700キロメートルほど延々と建造物が続いている。言わずと知れた「万里の長城」である。建設自体に約1900年もかかっているわけだが、建設を始めたのは誰か?当然答えは「秦の始皇帝」なのだが、小学生はふざけて「大工さん」と答えたりする。しかし、実は万里の頂上を現実に建設したのは大工さんではなく、そういう意味での答えは「罪人」である。
china,column
2014-10-29 10:15