えっ、ニュースを放映? 魯迅小説言語拾零(6)
日本語と中国語(389)
(10)「映画」→「映写」に改められた増田訳
先に引いた“電影”を含む箇所の増田訳は、のちに次のごとく改められている。
第二学年には細菌学が加わったが、細菌の形状はすべて映写を使ってハッキリ示された、授業が一段落してもまだ時間がのこっているときは、時事の画面を幾つかうつした、……(角川文庫、昭和36年)
元の訳文と比べてみると、まず「第二学年には」の後に「細菌学が加わったが」が補われているのに気づく。これは旧訳では脱落していた“添教霉菌学”を訳出したものである。
問題の“用電影来顕示的”は、「映画を使って教示された」から「映写を使ってハッキリ示された」に改められている。この限りでは、まだ“電影”を「映画」と理解していたのか「幻灯」と理解していたのかは明らかではないが、仮に前回指摘したように日本語の「映画」の早期の使い方に「幻灯」の意味があるにしても、もはや死語と化したと思われるこの意味での「映画」を避けて、映画であっても幻灯であっても、いずれにも通用する「映写」に改められていることがわかる。
なお“顕示”を「ハッキリ示す」とするのは、単に「示す」(駒田訳)、「示して見せる」(竹内訳)よりも、正確である。
「映写」だけでは映画か幻灯かはっきりしないが、続く“便影几片時事的片子”を「時事の画面を幾つかうつした」としているところから、“片子”を画面が一コマずつ独立したフィルムまたは絵ととらえていること、すなわち“電影”を「幻灯」と理解していることがわかる。
(11)「放映」はテレビで放送することでは?
以上で、旧訳はともかく、角川文庫版の新訳では増田が、と恩師の名前を呼び捨てにするのは気が引けるが、ここは文章の流れで敬称を使うと落ち着かないのでお許しいただくとして、増田が“電影”を「幻灯」の意に解していることは明らかになったが、最初から「幻灯」としている竹内のこの箇所の訳が、ちょっと気になる。
第二学年では細菌学の授業があって、細菌の形態はすべて幻灯で映して見せるが、授業が一段落してもまだ放課にならぬと、ニュースを放映してみせた。
前半の「幻灯で映して見せる」はいいとして、後半の「ニュースを放映して見せた」が、どうもひっかかる。「放映」を手元の辞書で見ると、
・報道・音楽・講演・演劇・スポーツなどの番組をテレビの電波にのせて送ること。また、特に、映画フィルムをテレビで放送すること。(小学館『日本国語大辞典』)精選版、2006年)
・テレビで放送すること。特に、劇場用映画をテレビ放送すること。(三省堂『大辞林』第三版、2006年)
・映画フィルムをテレビで放送すること。また、一般にテレビ放送を行うこと。(岩波書店『広辞苑』第六版、2008年)
・テレビで放送すること。(三省堂『新明解国語辞典』第七版、2012年)
ちなみに『広辞苑』が「放映」を収録するのは昭和44年刊の第二版からで、昭和30年刊の第一版にはまだ収めない。
別に文筆家が辞典を規範にして物を書かなければならないという約束はないが、竹内の「ニュースを放映してみせた」を幻灯による映写と理解することができる読者は、はたしているであろうか。(執筆者:上野惠司 編集担当:水野陽子)
先に引いた“電影”を含む箇所の増田訳は、のちに次のごとく改められている。第二学年には細菌学が加わったが、細菌の形状はすべて映写を使ってハッキリ示された、授業が一段落してもまだ時間がのこっているときは、時事の画面を幾つかうつした、……(角川文庫、昭和36年)。元の訳文と比べてみると、まず「第二学年には」の後に「細菌学が加わったが」が補われているのに気づく。これは旧訳では脱落していた“添教霉菌学”を訳出したものである。
china,column
2014-01-22 10:15