<照相>は動詞? 名詞? 魯迅小説言語拾零(7)

日本語と中国語(390) (12)《現代漢語詞典》は動詞だが   “電影”が「映画」ではなく実は「幻灯」であることは、先に見たとおりであるが、では次の“照相”はどうだろう。     将走的前几天,他叫我到他家里去,交給我一張照相,後面写着両个字道:“惜別”,還説希望将我的也送他。但我這時適値没有照相了:他便叮嘱我将来照了寄給他,并且時時通信告訴他此後的状况。    第二学年の終わりに、医学の勉強をやめて、仙台を離れるつもりだと告げた後のことである。     出発の数日前、かれは私を家に呼んで写真を一枚くれた。裏に「惜別」と二字書いてあった。そして私の写真もと乞われたが、あいにく手もちがなかった。あとで写したら送ってくれ、それから折にふれ手紙で近況を知らせてくれ、とかれは何度も言った。(竹内訳)   今、《現代漢語詞典》第6版の【照相】を引くと、品詞名を動詞としたうえで、“攝影(1)的通称”とある。“攝影”も動詞で、(1)が「写真を撮る」、(2)が「映画を撮影する」である。要するに、現代中国語の“照相”には「写真を撮る」という動詞としての用法しかない。   ところが、上の文に出てくる2つの“照相”のうち、初めの“照相”は“一張照相”(1枚の写真)と助数詞を伴っているところからもわかるように、明らかに名詞である。   後ろの“照相”はやや紛らわしいが、やはり竹内訳のように名詞と理解するのが適当であると思う。今ここで文法の話に深入りするつもりはないが、動詞として読むには“没有照相了”の“了”の字がどうしても邪魔になる。   この箇所の増田訳(旧訳)はこうである。       仙台を去らうとする数日前、先生は僕を自分の家に呼んで、僕に一枚の写真を下さつた。裏には二つの文字が書いてあつた「惜別」として僕の写真もくれるよう希望すると言はれた。だが僕はその時適々写真をとつてゐなかつた、先生はすると将来写したら送つてくれと頼まれ、且つ時々通信して今後の様子を知らせるやうにと仰つしやつた。    「だが僕はその時適々写真をとつてゐなかつた」は明らかに“照相”を動詞と解したものである。もっとも 新訳においてはこれを「だが私はその時ちょうど写真をもち合わせていなかった」と名詞に改めている。     なお、駒田訳は「だがわたしはそのときたまたま写真をとっていなかった」と 増田旧訳と同じく動詞に解している。 (13)“照相”=名詞は魯迅だけ?    もっとも、魯迅は動詞としての“照相”を使わないわけではない。   上に引いた段落のすぐあとにこうある。    我離開仙台之后,就多年没有照過相,又因為状况也无聊,説起来无非使他失望,便連信也怕敢写了。    仙台を離れたあと、私は何年も写真をとらなかったし、不安定な状態がつづいて、知らせても失望させるだけだと思うと手紙も書きにくかった。(竹内訳)   文中の“照過相”は、助詞“過”を伴っていることからもわかるように、明らかに動詞である。   では、今日、動詞としてしか使わない“照相”を名詞としても使うのは魯迅だけかと言うと、必ずしもそうではない。そのことは次回に。(執筆者:上野惠司 編集担当:水野陽子)
“電影”が「映画」ではなく実は「幻灯」であることは、先に見たとおりであるが、では次の“照相”はどうだろう。将走的前几天,他叫我到他家里去,交給我一張照相,後面写着両个字道:“惜別”,還説希望将我的也送他。但我這時適値没有照相了:他便叮嘱我将来照了寄給他,并且時時通信告訴他此後的状况。第二学年の終わりに、医学の勉強をやめて、仙台を離れるつもりだと告げた後のことである。
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2014-01-29 10:00