東京に埋葬されているインド独立運動家チャンドラ・ボーズ

日本経営管理教育協会が見る中国 第356回--下崎寛(日本経営管理教育協会会長) ● なぜか東京にお墓が   最近、インド旅行をしたので大学の先輩と雑談していたら、ガンディーと同じようにインドの建国に影響を与えたインド人で、第2次世界大戦の時に日本人と協力してイギリスと戦ったチャンドラ・ボーズという人がおり、なぜか東京杉並区連光寺にお墓があるとの話になった。   私の事務所から近いので、連光寺に行き調べてみると、日本人とのかかわりが深く興味を惹かれた。 ● インドではは過激派?   フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)によると、ボーズは1897年にインド(当時はイギリス領インド帝国)のベンガル州カタク(現在のオリッサ州)に生まれた。父親は弁護士で、インド人の人権を守る人権派であった。ボースはこの父親から大きな影響を受けカルカッタ大学に進んだ。大学でイギリス人教師の人種差別的な態度がインド人学生の反感を買い学生ストライキが勃発し、ボースは首謀者と見られ停学処分を受けたが、その後学士号を取得し、1919年、両親の希望でイギリスのケンブリッジ大学大学院に留学した。卒業後、1921年にマハトマ・ガンディー指導の反英非協力運動に身を投じた。彼はガンディーの非暴力主義には強く反対し、即時独立を求めるインド国民会議派の左派、急進派として活躍したが、その行動が過激であったためにガンディー支持派やガンジーを支持する国民会議派の多数派からの支持を失った。 ● 日本軍に参加し、台北で事故死   第二次世界大戦開戦後ドイツに渡り、最後は日本軍に参加し、独立運動を展開した。日本の敗戦により、ボーズはソ連の協力を得るために日本軍関係者の協力を得て台湾からソ連に向かおうとした。1945年8月18日、終戦の3日後、台湾の松山飛行場から大連へ向かう軍用機に乗り込んだが、離陸直前に軍用機は故障墜落してボーズは大やけどを負い、台湾陸軍病院で治療されたが死亡した。日本陸軍は1945年9月5日遺骨を日本に運び、インド独立連盟東京代表ラマ・ムルティに引き渡した。東京都杉並区の日蓮宗蓮光寺の住職望月教栄が葬儀を引き受け、9月18日にボースの葬儀が行われたとされている。 ● 遺骨の保管が連光寺で     遺骨は蓮光寺で保存されたが、望月住職はネルー派による奪回を怖れて遺骨を抱いて眠ったこともあるという。またムルティは遺骨の一部を個人的に保管していたので、彼の死後ムルティの弟の元に渡り、2006年にはボースの兄の孫に返還されている。蓮光寺にはインドのプラサード大統領、ネルー首相、インディラー・ガンジー首相などが訪問しており、その時の言葉も碑文として残されている。また、多くの在日インド人も訪れているという。   現在、その大学の先輩を中心に、インド政府関係者とお骨の返還を協議中である。しかし困ったことにそ「飛行機による事故死」という事実が疑問視され、その骨の真贋が問題となっている。     ボーズには兄弟や実の娘がおり、その人たちのDNA検査によりその真贋をはっきりすべきだとか、政治的に問題となる案件であることから慎重に対応が必要であるとの意見があり、難問が山積されているのが実情である。   日本とインドとの協力で、そろそろボーズの魂を成仏させてあげたいものだ。   写真は連光寺(杉並区)。(執筆者:下崎寛・日本経営管理教育協会会長 編集担当:水野陽子)  
最近、インド旅行をしたので大学の先輩と雑談していたら、ガンディーと同じようにインドの建国に影響を与えたインド人で、第2次世界大戦の時に日本人と協力してイギリスと戦ったチャンドラ・ボーズという人がおり、なぜか東京杉並区連光寺にお墓があるとの話となった。
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2015-04-30 09:15