残る文言文の痕跡 魯迅小説言語拾零(9)

日本語と中国語(392) (16)“適値”“致使”は大げさ   先に“但我這時適値没有照相了”の“照相”を動詞と解して、増田訳(旧訳)のように「だが僕はその時適々写真をとつてゐなかつた」とするのは、ちょっと無理があると書いた。   ところで、その「適々写真をとつてゐなかつた」の「適々」(たまたま)に対応する“適値”だが、どうも落ち着かない。日本語に訳してしまうと確かに「たまたま」なのだが、あまりにも硬すぎるのである。“正好”か“恰好”でよいところを、魯迅はなぜこんな硬い書面語を使ったのか。やはり、先に指摘したように、魯迅の頭の中では文言文で文章が組み立てられていて、それを口語文に改めて紙に書く時に、しばしば頭の中にあった文言語彙が未消化のまま残ってしまうのであろう。   こういう例は随所に見られる。      冬天是一件旧外套,寒顫顫的,有一回上火車去,致使管車的疑心他是扒手,叫車里的客人大家小心些。   藤野先生が身なりに無頓着なことを、前年も先生の講義を聞いている落第組の上級生が手ぶり身ぶりよろしく語り聞かせる場面である。増田訳:    冬には旧外套(ふるがいとう)をきて、ぶるぶるふるえている、あるとき汽車に乗ったら、車掌から掏摸(すり)と間違えられて、車内の大勢の客に用心するようにいわれたとか。   実はこの訳文、あまり正確でない。このままでは、旧外套を着てぶるぶるふるえていることと、車内でスリと間違えられたこととが二つの異なる逸話として受け取られかねない。事実は先生の貧相な様子を見て車掌がスリと間違えたのである。そのことをはっきり示しているのが“致使”である。   “致使”は何らかの理由で、或いはある事が原因で、ある結果を招くことをいうのに使われる非常に硬い表現である。車掌が乗客をスリと勘違いした程度のことをいうのに用いるのは、あまりにも大げさすぎる。ここは“以致”ぐらいが適当なように思われる。 (17)“時時”は「ときどき」?   上の“適値没有照相了”に続く一文は次のとおりである。(  )内は増田訳。    他便叮嘱我将来照了寄給他,并且時時通信告訴他此後的状况。(先生はするといつか写したら送るように頼まれ、また時々通信して今後の情況を知らせるようにとおっしゃった。)   「頼まれ」と訳されている“叮嘱”がちょっと気になるが(《現代漢語詞典》に“再三嘱咐”とあるように「何度も念を押して言い聞かせる」のである)、そのことは措いて、もっと気になるのは、「時々」と訳されている“時時”である。それでよいような気もするし、よくないような気もする。   訳文だけ読むと、何の違和感もない。去っていく異国の学生の行く末を気遣って、「時々便りをよこすんだよ」と念を押しているのである。わたくしなども、かつて何度もそんなふうにことばをかけた覚えがある。もしもそんな折に「しょっちゅう便りをよこすんだよ」と言ったとしたら、学生はきっと大きな負担を感じるに違いない。    あとで写したら送ってくれ、それから折にふれ手紙で近況を知らせてくれ、と彼は何度も言った。(竹内訳)    彼はあとで写したら送ってくれるように、また、ときどき手紙でその後の情況を知らせてくれるようにと、何度もいった。(駒田訳)   竹内の「折にふれ」も「時々」の変形と見てよいだろう。果たしてこの訳で問題はないか。  (執筆者:上野惠司 編集担当:水野陽子)
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2014-02-12 10:15