<時時>はしょっちゅう?時々? 魯迅小説言語拾零(10)

日本語と中国語(393) (18)中国語“時時”は「しょっちゅう」「たびたび」   前回取り上げた“時時”を含む箇所、もう一種の訳本(丸山昇『阿Q正伝』所収、新日本文庫、1975年)では、次のようになっています。    彼は私にあとでとったら送ってくれるように、そして始終手紙でその後の様子を知らせてくれるように、といった。   すでに見た増田訳の「時々」、駒田訳の「ときどき」、竹内訳の「折にふれ」とは違って、丸山訳は「始終」である。     日本語だけで考えると、先に書いたように、「時々便りをよこすんだよ」のほうが、「しっちゅう便りをよこすんだよ」よりも、はるかに自然である。恋人どうしならともかく、教師が教え子に「しょっちゅう」或いは「始終」便りをよこせという場面は、ちょっと考えにくい。   中国語の辞書、例えば《現代漢語詞典》を見ると、“時時”は副詞で“常常”だとある。“常常”なら「時々」ではなく、「常に」「しょっちゅう」「たびたび」である。同書の二つの例文のうち、初めの“時時不忘自己是人民的公仆”は「片時たりとも己が人民の公僕であることを忘れない」であって、“時時”は「時々」であってはならない。もう一つの例文“二十年来我時時想起這件事”も、「この20年の間、私はいつもこの事が思い起こされる」だろう。   上の二つ目の例文から、魯迅が第一創作集である『吶喊』に収める「小さな出来事」の中で、似たような使い方をしているのを思い出した。    這件事到了現在,還是時時記起。我因此也時時熬了苦痛,努力的要想到我自己。    このことは現在になっても、まだ時々思い出す。私はそのために時々苦痛にたえられず、努力して私自身について考えてみようとする。(増田訳)    この出来事は、いまでもよく思い出す。そのため私は、苦痛に堪えて自分にことに考えを向けようと努力することにもなる。(竹内訳)       この事件は今になってもしばしば思い出される。それによってわたしはしばしば苦痛に堪え、努力して自分自身のことに考えを及ぼそうとするのである。(駒田訳)        このできごとは、今になっても、まだよく思い出す。私はこのために、よく苦痛をこらえ自分自身のことを考えようと努力することになる。(丸山訳)     「よく」「しばしば」に対して、ひとり増田訳は「時々」。多数決で決めようなどという魂胆は毛頭無いが、ここは「時々」は分が悪い。前後関係を見ないことには分かりにくいが、「小さな出来事」が自分に与えた衝撃の強さに思い至る時、ここは「時々思い出す」のではなく、「よく(或いはしばしば)思い出す」のでなけれなならない。 (19)“時時”は日本語の「時々」?   それでは元に戻って“時時通信”の“時時”は、結局、「時々」か「しばしば」か。   二様の解釈が可能である。一つは、あくまでも中国語の“時時”は「しばしば」であって、去り行く学生に「しばしば便りをよこせ」はいかにも不自然であるが、ここは藤野先生の感情の高ぶりようを強調するために、魯迅はことさらにこの語を選んだ、という解釈である。    もう一つは、日本留学生活が長く、日本語に堪能であった魯迅は、日本語の影響を受けて、ついうっかり日本語の「時々」をそのまま使って、“時時”とした、という解釈である。(執筆者:上野惠司 編集担当:水野陽子)
前回取り上げた“時時”を含む箇所、もう一種の訳本(丸山昇『阿Q正伝』所収、新日本文庫、1975年)では、次のようになっています。彼は私にあとでとったら送ってくれるように、そして始終手紙でその後の様子を知らせてくれるように、といった。すでに見た増田訳の「時々」、駒田訳の「ときどき」、竹内訳の「折にふれ」とは違って、丸山訳は「始終」である。
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2014-02-19 09:00