恩師・藤野厳九郎 弟子・増田渉 魯迅小説言語拾零(2)
日本語と中国語(385)
(2)増田渉と魯迅
前回のおしまいに触れた『中国小説史略』は、その書の「序」の冒頭に記されているように、「自来無史」、すなわちこれまで記述がなされることのなかった小説の歴史的な変遷を初めて通観したものである。
この書は刊行後まもなく何種類かの抄訳が出ているが、初めての全訳は『支那小説史』と題して1935年7月に東京のサイレン社から出版された。訳者は増田渉。
増田渉はわたくしの恩師のうちの一人である。わたくしは文学を専攻した者ではないので,先生の「弟子」を僭称(せんしょう)するつもりはないが、先生の大阪市立大学における最後の2年間の講筵に列し、また同大学定年退職後迎えられた新設の関西大学大学院において、助手として3年間先生のご指導を受けている。この間の思い出については、既刊の『ことばの散歩道Ⅲ』(白帝社、2011年10月)に収めるコラム「師の影を踏む」に6回にわたって記しておいた。
そのうちの第1回は、次のとおりである。すでに発表した文章をもう一度引くのはいささか気が引けるが、この先の話を続けるうえで欠かせないのでお許しいただきたい。
先生は晩年の魯迅に親炙(しんしゃ)され、『阿Q正伝』『中国小説史略』をはじめ、多くの作品を翻訳紹介されている。また師弟間の心温まる交流の記録を『魯迅の印象』(角川書店)と題して残しておられる。
昭和の初めに大学を卒業され、不況下の日本でぶらぶらしているよりもと、上海に渡られた。師事していた佐藤春夫の勧めによるものだと伺った。
「魯迅さんを慕って渡ったのではない」と、よくおっしゃった。そう言ってしまえばわかりやすいが、事実とは異なるというのである。いかにも先生らしい律義さである。当時上海にあった内山書店に出入りしていたら、老板(店主)の完造さんが「中国文学を勉強したいのなら魯迅さんに会うといい」と仲立ちをしてくださったのだそうだ。
(3)魯迅と藤野厳九郎
内山完造さん(今、神田神保町にある内山書店の創始者)の紹介で魯迅に会った青年増田渉は、その向学心と誠実な人柄を魯迅に愛され、魯迅の住むアパートに通い、直接指導を受けながら『中国小説史略』の翻訳に没頭する。昭和4年(1929)から6年(1931)にかけてのことである。
このことも先のコラムに記したが、晩年の魯迅が、あの身辺多事の上海で、日本からやってきた見知らぬ青年に惜しみなく愛情をそそいだ背景には、青年の日、仙台で藤野厳九郎先生から受けた学恩に報いる気持ちがあったに違いない。
藤野先生のことは、中国語で「散文」と称されるエッセー風の文章10篇を収める『朝花夕拾』(北京・未名社、1928年9月)の中の1篇に記されている。題名はそのまま「藤野先生」である。執筆は1926年10月。
『朝花夕拾』に収める10篇はいずれも幼少時代から辛亥革命の頃までのことを回想した文章である。エッセーと言いながらも、幼少期に世話をしてもらった女中の長(チャン)媽(マ)媽(マ)をめぐる淡い思い出を記した文章から、民俗学的考証に近い文章まで、内容は多岐にわたっている。
うち、仙台医専留学時代の藤野先生との交流を描いた1篇は、回想録の体裁をとってはいるが、創作的要素を多分に含むかに、わたくしには思われる。(執筆者:上野惠司 編集担当:水野陽子)
前回のおしまいに触れた『中国小説史略』は、その書の「序」の冒頭に記されているように、「自来無史」、すなわちこれまで記述がなされることのなかった小説の歴史的な変遷を初めて通観したものである。この書は刊行後まもなく何種類かの抄訳が出ているが、初めての全訳は『支那小説史』と題して1935年7月に東京のサイレン社から出版された。訳者は増田渉。
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2013-12-18 10:00