“時時”中国語は昔から「常に」 魯迅小説言語拾零(11)
日本語と中国語(394)
(20)すっきりしない『大漢和辞典』
先に《現代漢語詞典》の説明を引いて、“時時”は副詞で“常常”、つまり「常に」「しょっちゅう」「たびたび」の意であるとした。一方、日本語の「時時」は、あくまでも「ときどき」である。『広辞苑』は「(副詞的に)いつもではないが、時として」とし、「ときおり」「まま」と言い換えている。古くからそうであって、これは『広辞苑』も引いているが、『枕草子』の162段に「時時は宿直(とのい)なども仕うまつるべけれど」とあるのが、その例である。
ついでに中国古典ではどうかと大修館書店の『大漢和辞典』の「時時」の項を引いてみて驚いた。「じじ」と読み方を示したうえで、「ときどき。とりをり。又、その時その時に。又、いつも。常に」と解釈というよりも言い換え語句が並べられている。2つ目の「とりをり」は耳にしたことも目にしたこともない。自分が知らないからといって疑うのは不謹慎だが、或いは誤植であろうか。「又」「又」と「又」が2つ続くのもなにやらなげやりな感じがしなくもない。その2つ目の「又」の後にある「いつも」「常に」が中国語での、現代語においてだけではなく、おそらくは古典語においてもそうであるはずの用法であるが、だとすればいかにも付け足し的な2つ目の「又」の後ではなく、まず第一にこれを掲げるべきではないだろうか。この項に限らず、『大漢和辞典』の項目の立て方、語釈の施し方,用例の拾い方にはなはだ恣意的なところがあって、しばしば読者を困惑させる。漢和辞典が日本語の漢語を収めるべきではないとは思わないし、日本語での語義を与えてはいけないとは言わないが、収めた漢語が中国語のものなのか日本語のものなのか、与えた語義が中国語のものなのか日本語のものなのかは、常にはっきり示されていなければならない。
なお、『大漢和』の「時時」の項には上の語釈の後に『史記』から2例、『漢書』と古詩から各1例の用例が引かれているが、それぞれがどの語釈に対応しているのか不明である。というよりも、語釈は語釈、用例は用例と、初めから対応関係を考慮することなく編集作業が進められているのではないか。
『大漢和』は今日までのところ日本で最も規模の大きい漢和辞典であるが、中国における同じ規模の辞典は《漢語大詞典》である。『大漢和』と同じく本文全12巻で、古典を中心に現代語まで収録する。こちらは、『大漢和』がいくつもの語釈を与えるのに対して“常常”の1語のみで、『史記』、唐詩、現代文学から引く3つの用例は、いずれも“常常”に相当するものである。
(21)毛沢東も「常に」
中国革命の指導者毛沢東をどう評価するかは人によって分かれるかもしれないが、彼が今古を通じて第一流の文章家であることを否定する人はおそらくいないであろう。以下の2例は《毛沢東選集》中の“時時”の使用例である。(訳文は『毛沢東選集』外文出版社版1968年による。)
這種痛苦的経験,是値得我们時時記着的。(このような苦い経験は、われわれがつねに銘記しておく必要がある)《井岡山的斗争》(井岡山の闘争)1928年11月。
我們応該抑制自満,時時批評自己的缺点,好象我們為了清潔,為了去掉灰塵,天天要洗臉,天天要掃地一様。(清潔をたもち、ほこりをとりさるために、毎日顔を洗い、毎日掃除しなければならないのとおなじように、自己満足をおさえ、つねに自分の欠点を批判すべきである。)《組織起来》(組織せよ)1943年1月。
他にも《毛沢東選集》における“時時”の使用例が数例わたくしの手元にあるが、いずれも「常に」「しょっちゅう」「しばしば」と解すべきものである。(執筆者:上野惠司 編集担当:水野陽子)
先に《現代漢語詞典》の説明を引いて、“時時”は副詞で“常常”、つまり「常に」「しょっちゅう」「たびたび」の意であるとした。一方、日本語の「時時」は、あくまでも「ときどき」である。『広辞苑』は「(副詞的に)いつもではないが、時として」とし、「ときおり」「まま」と言い換えている。古くからそうであって、これは『広辞苑』も引いているが、『枕草子』の162段に「時時は宿直(とのい)なども仕うまつるべけれど」とあるのが、その例である。
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2014-02-26 09:45