それは日本語でしょ? 魯迅小説言語拾零(14)
日本語と中国語(397)
(26)出口が見つからない
わたくしは大の方向オンチで、歩き慣れた自宅付近の散歩道でも、ちょっと冒険してみようと脇道に足を踏み入れて戻れなくなったりすることがしばしばあります。乗った電車が動き出す寸前に、「しまった、反対方向だ」と気づいて飛び降りたら、実は去ってしまったその電車でよかったなんてことも何度も経験しています。北京の友諠賓館で生活していた頃、夜間に賓館内の劇場で映画を観た帰りに道がわからなくなってウロウロしていたら、怪しまれて服務員に跡を付けられてしまいました。
そんな次第ですから、というのは言い逃れかもしれませんが、書く文章もしばしば脱線したり方向を見失ってしまったりします。今回も、脇道へ入ったところまでは覚えているのですが、さて目的地はどの方向であったか、だいぶ怪しくなってきました。
藤野先生が仙台を去る魯迅に“时时”手紙をよこすようにというその“时时”が、「ときどき」か「しょっちゅう」かという疑問が出発点でしたね。去りゆく学生に向かって教師が「しょっちゅう」近況を知らせよというのはいかにも不自然で、ここはやはり「ときどき」だろうといったんは考えたが、ただ中国語の“时时”は今も昔も「しょっちゅう」「しばしば」であるのが、ちょっとひっかかる。或いは日本での生活が長く日本語に堪能であった魯迅が、うっかり日本語の「時時」をそのまま“时时”として使ったのではないかという推測も成り立つ――としました。
(27)「しょっちゅう」「しばしば」でいいような
「日本語の影響かも」と、当初、わたくしは見当をつけていたのですが、手元の何冊かの辞書を引いたり、魯迅自身の他の作品での用例を見たりしていくうちに、ここはやはり中国語として「しょっちゅう」「しばしば」と解すべきではないかという方向に気持ちが傾いてきました。そう思って読み直すと、学業を半ばにして去りゆく異国の学生の行く末を案じた藤野先生が「しょっちゅう」便りを寄こすんだよと言ったとしても、別におかしくはないように思われてきました。
(28)犬も鼠も牛も”匹”ですか
では、「日本語の影響かも」としたわたくしの推測がまったく根拠のないものかと言いますと、必ずしもそうではありません。魯迅の文章のなかには、日本語の影響を受けたとしか考えられない表現がいくつも出てきます。
その一つが助数詞“匹”の使い方である。日本語では牛や馬は「頭」或いは「匹」で数えるが、中国語では牛は“头”、馬は“匹”と決まっていて、“一匹牛”とか“一头马”と数えることはありえないと入門クラスで教わる。牛と馬のほかは、犬を“条”で、豚を“口”で数える以外は、たいていの動物は“只”である。いずれにしても、馬以外の動物を“匹”で数えることは、まずありえない。
ところが、魯迅はどうか。
阿Q没有说完话,拔步便跑;追来的是一匹很肥大的黑狗。(阿Q正传)
那年的黄老鼠狼咬死了那匹大公鸡,哪里是我没有关好吗?(离婚)
尧爷的时候,我曾经射死过几匹野猪,几条蛇……。(奔月)
果然,一匹很大的老鼠落在那里面了;(铸剑)
これら犬、雄鶏、猪、鼠のほか、“狼”(おおかみ)、“乌鸦”(からす)、“麻雀”(すずめ)、“牛”、“马”とほとんどあらゆる動物を日本語式に“匹”で数えているのである。(執筆者:上野惠司 編集担当:水野陽子)
藤野先生が仙台を去る魯迅に“时时”手紙をよこすようにというその“时时”が、「ときどき」か「しょっちゅう」かという疑問が出発点でしたね。去りゆく学生に向かって教師が「しょっちゅう」近況を知らせよというのはいかにも不自然で、ここはやはり「ときどき」だろうといったんは考えたが、ただ中国語の“时时”は今も昔も「しょっちゅう」「しばしば」であるのが、ちょっとひっかかる。
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2014-03-19 02:00