<讲义>=「講義」は日本語? 魯迅小説言語拾零(15)

日本語と中国語(398) (29)“讲义”は講義用のプリント   藤野先生が留学生の私(=魯迅)のノートをていねいに添削してくれたこと、そのことが思いがけない波紋をもたらしたことについては、先にちょっと触れた。   ある土曜日の午後、呼ばれて研究室を訪ねた私に先生は、“我的讲义,你能抄下来么?”と尋ねる。「私の講義を、君はノートが取れますか」ぐらいの意味だろう。 訳はこれで問題ないのだが、“讲义”=「講義」が気にかかる。《现代汉语词典》で“讲义”を引くと、名詞としたうえで“为讲课而编写的教材”とある。「講義用に編まれた教材」、つまり授業時に配付されるプリントのことである。   中国の大学では、その時間の講義の要旨や時には講義内容の全文が授業の始めに配られることが多い。今はワープロが普及しているので事情は多少異なるであろうが、かつては教授が手書きで作成した原稿を授業時までにタイプをしたりガリ版を切ったりして印刷物に仕上げる部局があった。この印刷物が“讲义”で、通常、教室の入口に積み上げられていて、学生はそれを1部ずつもらって入室した。欠席した学生は、当然ながら、“讲义”を受け取ることができなかった。   なぜそのような伝統ができたかというと、これはわたくしの推測だが、まだ今日のように共通語が普及していない時代にあっては、先生も学生も出身地はまちまちで、なまりの強い先生もいれば、出身地の方言しか聞き取ることのできない学生もいたに違いない。いくらなまりの強い先生でも文章はきちんと書ける。方言地区から来た学生でも、書かれた文章なら読むことができる。長い歴史の中で共通語としての文言(文章だけに用いる特別の言語)が確立していたからである。というわけで、教授は予め配付したプリントを読み上げ、学生は文字を目で追っていくという授業形式が出来上がったに違いない。 (30)本来は「義」を説き明かすこと   藤野先生の“我的讲义,你能抄下来么?”の“讲义”は、日本語としては「講義」と訳して何の問題もない。では、魯迅は日本語の「講義」をそのまま“讲义”として用いたのであろうか。先の“时时”もそうだが、そのようにも考えられるし、そうとも言い切れないような気もする。言い切れない理由は、「講義」という語は、本来は文章や学説の「義」を説き明かすことを意味したはずであるから、中国語においても、日本語の「講義」の方向に解されたとしてもおかしくはないのである。事実、古典の中ではそ のような使い方がなされているのである。言い換えれば、日本語の「講義」は中国古典での使い方を継承したものということになる。   したがって、魯迅が使った“讲义”が古典での使い方を継承したものか、日本語の「講義」をそのまま使ったものかは、にわかには決められないのである。ただ、古典では使われているにしても現代中国語では使われることのない使い方をしているについては、日本語での使い方に誘発されたと見ても大きな見当外れはしていないように思われる。 (31)「筆記したノート」の意も   「ノートが取れますか」と聞かれて、“可以抄一点”(何とか取れます)と答えたところ、“拿来我看!”(見せてごらん)と命じられる。そこで私は“交出所抄的讲义去”(筆記したノートを提出)することになるのだが、ここでは“讲义”が「(筆記した)ノート」の意味で使われている。(執筆者:上野惠司 編集担当:水野陽子)
藤野先生が留学生の私(=魯迅)のノートをていねいに添削してくれたこと、そのことが思いがけない波紋をもたらしたことについては、先にちょっと触れた。ある土曜日の午後、呼ばれて研究室を訪ねた私に先生は、“我的讲义,你能抄下来么?”と尋ねる。「私の講義を、君はノートが取れますか」ぐらいの意味だろう。
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2014-03-25 22:45