先生、その訳違います 魯迅小説言語拾零(16)
日本語と中国語(399)
(32)図はやはりぼくのほうが
“讲义”が「ノート」の意味でも使われていることは、前回見たとおりであるが、ある時藤野先生は「私」を研究室へ呼び入れて、私のノートの中にあった下膊(かはく)の血管の図を指して、こんな注意をされた。ちょっと長くなるが、科学者藤野先生と芸術家魯迅の物の見方の違いが出ていておもしろいので引く。
你看,你将这条血管移了一点位置了。――自然,这样一移,的确比较的好看些,然而解剖图不是美术,实物是那么样的,我们没法改换它。现在我给你改好了,以后你要全照着黑板上那样的画。
見たまえ、君はこの血管を少し位置をかえている。――もちろん、こう位置をかえたら、確かに多少うつくしく見える。けれども解剖図は美術とはちがう、実物は私がかいたとおりで、われわれはそれを変えるわけには行かない。いま私は君のを訂正しておいた、これから君は黒板にかかれたとおりにかかねばなりません。(増田訳)
だが、芸術家魯迅は不服であった。口ではハイと返事をしたものの、内心こう思っていた――“图还是我画的不错;至于实在的情形,我心里自然记得的。”
図は私のかいたのは間違っていません。実際にどうであったかを,私はもちろん心の中に覚えています。(増田訳)
図はやはりぼくの描き方のほうがうまいですよ。実際の形態ならむろん頭でおぼえています。(竹内訳)
増田と竹内の両訳を掲げたが、増田訳が“图还是我画的不错”の“不错”を「間違っていません」とするのは、文字にとらわれすぎていはしないか。
魯迅は絵心があって、少年時代から古書の挿絵を描き写したりしているし、増田宛の書簡の中でもしばしば図をもって自作の解説をしたりしている。したがって、上の“不错”も、竹内訳のように「図はやはりぼくの描き方のほうがうまい」と読むのが自然であろう。
(33)落第せずにすんだだけ
恩師の揚げ足を取るような誤訳の指摘はあまりいい趣味ではないが、上の文のすぐ後にある次の箇所も検討を要するように思われる。
学年试验完毕之后,我便到东京玩了一夏天,秋初再回学校,成绩早已发表了,同学一百余人之中,我在中间,不过是没有落第。
学年試験が終わってから、私は東京へ行って一夏あそんで、秋の初めにまた学校へ帰った。成績はもう発表されていて、同級百余人の中で、私は中程にいたが、しかし落第者はかいてなかった。(増田訳)
学年試験のあと私は東京へ行ってひと夏遊んだ。秋のはじめに学校にもどってみると、すでに成績が発表になっていた。百人あまりの同級生中、私はまん中どころで落第せずにすんだ。(竹内訳)
おしまいの“不过是没有落第”の訳が気になる。「落第せずにすんだだけだ」。増田訳は明らかに誤訳である。竹内訳もやや物足らない。「落第せずにすんだ」と安堵しているのではなく、「まん中どころ」の成績しか得られなかったことを、ずっと秀才で通してきた周樹人は不本意なのである。(執筆者:上野惠司 編集担当:水野陽子)
“讲义”が「ノート」の意味でも使われていることは、前回見たとおりであるが、ある時藤野先生は「私」を研究室へ呼び入れて、私のノートの中にあった下膊(かはく)の血管の図を指して、こんな注意をされた。ちょっと長くなるが、科学者藤野先生と芸術家魯迅の物の見方の違いが出ていておもしろいので引く。
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2014-04-02 09:15