日本と中国-「不戦の誓い」に立ち返り、「理」でなく「利」で立て

先日、テレビで、高名なマイケル・サンデル教授がコーディネーターを務める討論番組(BS1スペシャル マイケル・サンデルの白熱教室「日中韓の未来の話をしよう」)をたまたま見ました。
なかでも、「歴史観」と、それぞれの国の教科書における近現代史の記述内容について意見を交わす場面が印象に残りました。
話は自然と日本の歴史教科書が先の大戦を「侵略戦争」としてどこまで記述しているのかという切り口から始まりました。しかし、そこはサンデル教授です。「みなさんの――ここでいう「みなさん」は主に中韓の学生のこと――国の教科書の中で、書かれるべくして書かれていないものがあると思いますか」と、議論をいきなり深堀りされたのです。
中国人の学生が、これにすぐさま答えました。「文化大革命について、あるいは1960年前後の、いわゆる“3年にわたった自然大災害”の真相について、なにも語られていないと思います」――。
その学生は非常に知的で、かつ勇敢でした。一方、韓国人の学生は、韓国とベトナム戦争の関わりについて語りました。これもまた、常々日本に対して「謝罪」を求める自国政府も、別の国に対すればたちまち“攻守”の所を変え、「謝罪を求められる」立場になる可能性があるではないかという重要なポイントをついたものでした。
歴史というものは、勝者が書くものである。したがって、勝者にとり都合の悪いことはしばしば素通りされる、語られない。そういう、言われてみれば至極当たり前な、しかし実に本質的で重要なことが参加者全員に共有されたかにみえた瞬間でした(もちろん、頭で理解しても、それが彼または彼女たちの今後の世間への処し方や言動にどこまでそれが反映されるかはわからないのでありますが)。
■人間はエゴイズムの固まりなのか
ともあれ。
人間は、非常に矛盾に満ちた生き物です。数百年前は、地球が丸いかどうかを知るために命懸けの航海に出たぐらいだったのに、いまでは宇宙ステーションが地球の軌道を回り、それどころではない、人工多能性幹細胞(iPS細胞)で再生医療を進めるなどという、下手をするとこれまでの人間観、生命観、宗教観などを根底から揺さぶってしまうところまで知的発展を遂げました。
ところが、その同じ人間が、女性に教育を受けさせてはならぬ、などと言って、いたいけな少女たちを誘拐したり、大洋に浮かぶ小島の領有を巡って、大国同士がいまだに延々と角突き合わせているのです。
そんなことをしている時間があるのなら、多くの科学者たちが、「まもなく時間切れになりますよ、タイム・リミットを過ぎますよ」と警鐘を鳴らし続けている地球温暖化や気象変動の問題にどう対処すべきか、世界のリーダーが今こそ本気で話し合うべきなのに、です。
しかし、それがどうにも、そうならない。大国であれ小国であれ、1国のリーダーともなれば、ふつうに家庭を持っていることでしょう。子供も孫も、いるでしょう。子孫のために、と大上段にならずとも、せめて自分の子供や孫のため、かれらが安心して生きていける環境を残すためにはどうしたらいいか、が何故物事を考え決める第1の尺度にならないのでしょうか。そこまで人間というのはエゴイズムの固まりで、狭量な存在なのでしょうか。
■環境汚染は「国の問題」ではなく「地球の問題」
わたしは毎月中国に足を運んでいますが、ご存知の通り、このところ、特に冬場は大変な大気汚染で苦労しています。近頃は、プライド高い北京の友人たちでさえ、「もうここは生活できる環境ではない。いずれ海外に移住するよ」と言い出しています。
社会的な地位のある人や、一定の成功を収めた企業家などであれば、もうとっくの昔にお子さんたちを海外で留学させていることでしょう。ちなみに、わたしの友人たちの場合、もう100%そうなっています。
お子さんや奥さんを先に海外に行かせておいて、しかし自分はまだまだビジネスチャンスのある中国でカネを稼ぐのだ、という人たちも大勢います。
ただ中国の問題は、実は中国だけの問題ではないのです。
中国人のこうした状況は、いよいよ中国が住みにくくなったり、ビジネスがうまく行かないのなら海外へ、ということで話は一応通るのですが、地球人、という単位だったらそうはいきません。地球を荒らしたいだけ荒らし、資源を食い散らかし、自分のためだけにカネの亡者になり、いよいよとなったら、さて何処へ行くのでしょうか。自分はそのうち“昇天”してしまうのだからあとは知ったこっちゃない、というのではあんまりです。
■万人に万人の「歴史観」がある
日本も中国も、領土領海の問題で、にらみ合いを続けたままです。お互いが「わが方に理がある」として譲りません。
領土問題は、どんな「理」を持ってきても解決しないでしょう。と言うより、「理」をかざして対論していたのでは、おそらく永遠に解決に至らないでしょう。歴史家を連れてきても、解決しないでしょう。いったいどこの時点をもって、どの歴史事実を以て、当該地をどこの国の所属とするか、を延々やり合うだけになります。
歴史認識という問題も、同じように、本質的な議論をしようとすればするほど、解決のつかぬ袋小路に行き当たることでしょう。なぜか。それは「歴史」がどんな国であっても、100%の歴史総体を反映して書かれているわけではないからです。
サンデル教授が示唆したように、どこの国にも「書かれていない歴史」がある。したがって、これが絶対という「歴史観」はおよそ存在し得ないわけで、さらに言うならば、万人に万人の歴史観があるのだから、一国の歴史観を「理」としてもう一方に押し付ける立場で議論を重ねても、およそ仕方のない不毛な結果に終わるだけなのです。
■今後日本にとって深刻な「人口減少」
ここで話を日本と中国の間の、それもビジネスの次元に絞りたいと思います。日本の置かれている今の状況を、中国の台頭という大きな流れと合わせて考えてみたいのです。
日本は、いまさら言うまでもなく、資源の乏しい国です。食料自給率は4割を切りましたし、エネルギー自給率に至っては、わずか4%(『エネルギー白書』2011)。特に石油の場合、99%を海外からの輸入に依存しています。
要するに、日本ほど、平和な国際環境と、安定した貿易環境を必要としている国はないのです。
日本にとって、食糧やエネルギーという問題と並んで、今後の盛衰に関わる大きな問題は、人口減少に関わる問題でしょう。
内閣府が出している『高齢社会白書』(平成24年版)には「将来推計人口でみる50年後の日本」という一項がありますが、ここでは平均寿命が伸びを反映して確実に上昇する高齢化率が示され、併せて出生率の減少が生産年齢人口(15-64歳)に大きな影響を及ぼしていく将来像が描かれています。
乏しい資源の日本にとり、これまでほとんど唯一の「優位性」は、優れた基礎教育制度に支えられた優秀かつ勤勉な労働力、つまり「ヒト」、でした。ここのところが、絶対量でまず激減していくのです。質の問題については敢えて細かくは申しません。だが質の面にも問題が出てくれば、事態は更に深刻なことになるでしょう。昨今の経済情勢の中で進学が難しい貧困家庭が増えているといった報道などに接すると、心配がつのります。
普通に考えれば、生産に携わる側も消費する側も減っていくのですから、経済規模が縮んでいくと考えるのが自然です。
■今、日本が持つ2つの幸運な現実
日本は、成長のピークをとうに過ぎました。成熟国家としての矜持(きょうじ)と体面は保ちつつ、GDP至上主義にはそろそろ未練を残すことなく、「アディオス!」と言ったほうがよいのでしょう。
しかし、暗い話ばかりではないはずなのです。日本のすぐ隣には、猛烈な膨張を遂げつつあるが民生には気の遠くなるほどの課題――つまり、潜在市場――を抱える大国があるのですから。
中国の自動車市場(新車ベース)は、いまや年間2000万台を超えるまでになりました。また、最近は日立製作所が広州市に建築中の超高層ビルに世界最速のエレベーターを納入してマスコミでも注目されました。世界のエレベーター市場の6割以上を中国一国で占めていると言われるなかで、「中国市場で敗れれば、即、世界市場から退場」となる業種が決して少なくないのです。
これが、第1の現実です。
つぎに、「尖閣国有化」に端を発した両国間の緊張増大のなかでも、特に、今年に入ってから目立っている現象が、日本に押し寄せる中国人観光客の増加です。わたしの知り合いのなかでは「領土問題でホントに2国間関係がまずくなっちゃったら行けないから、今のうちに」などという人もおりましたが、とにかくいま、「日本観光」は中国人に大人気です。
ご存知の通り、中国人観光客はたくさんお金を持ってきますから、日本国内でさまざまな経済効果を生みます。
しかしそういう短期的な話だけではなく、およそ1度でも日本に来て、ほんの触れ合い程度にでも「日本」を体験した中国人は「これまでずっと聞かされてきた“憎むべき日本人”、“怖い軍国主義者たち”なんてどこにも居ないじゃないか、という当たり前の事実を体感して帰国していくのです。
温泉で出会った人や、迷子になって道を尋ねたりした日本人とのちょっとしたやり取りから、「新鮮な発見」をして帰国していく。
これは日本にとって、極めて有効かつ持続的な安全保障の基盤となることでしょう。こうして「日本」を体感した人は――多分生半可なインテリよりは、ごくふつうの人びとこそ――今後、自国で聞かされる平面的かつ教条的な日本批判を聞いても、これまでとは異なる受け取り方をすることでしょう。
これは、第2の現実です。
■「理」よりも「利」で立て
そろそろまとめに入りましょう。
貿易で生きていかざるを得ない日本には、完全に一方的に国土を侵略された場合に自衛戦争をおこなう場合を除けば、隣国と戦争状態に入るというオプションはありません。そもそも、まるで「利」がないからです。
領土問題も、歴史問題も、「理」だけ掲げて争い合っていたのでは、解決のしようもありません。領土問題で、暫時でも2国間で白黒を付けようと思えば、世界を見渡しても、ほとんどの場合「戦争に訴える」しかありませんでした。戦争の場合、時代と情勢で勝ったり負けたりしますから、その結果としての境界線は実のところ「理」の根拠足り得ない。
また「歴史認識」は、お互いの国で歴史認識が異なるのは至極当然であるから、これもこちらが正しい、そちらは間違っているだけを言い合っても、永遠に合意点は見つからない。前述のように、どこの国にも、教科書には「載せられない/載せたくない」ことがあるのです。
ただ、日本は、1945年にポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をし、1951年にサンフランシスコ講和条約を締結して国際社会に復帰したのだから、そのときに承服し、認めたことに対して改めて「異」を唱えるというのは、戦争に買った連合国側、すなわち国際連合体制に「異」を唱えることになるます。これは、たとえ「わが方にも理あり」という見方が一部あり得るにしても、とりわけ政治権力にいま携わる人びとこそ、厳に控えるべき態度だと考えます。(これも「利」がないから、です)
「理」は、立場の異なる2者間のあいだで、それぞれにあるものでしょう。世界中にさまざまな対立があります。人間の歴史はむしろ、「理」の相克と対決で彩られてきたともいえます。けれども、「理」と異なる、もう一方の意思決定の軸に「利」があると思うのです。「理」はこちらの言い分の正当性を主張して止みませんが、「利」は正当性を争わず、現実をいかに双方にとりWin-Win(ウィン・ウィン)で活用できるかを最大限図ろうとする態度です。
日本と中国が角突き合わして、身動きも取れない状況になっている中、ゼネラルモーターズ(GM)が2017年までに中国で120億ドル、フォルクスワーゲン(VW)も2018年までに182億ユーロの対中投資を決めたというニュースが入ってきました。いったい、誰が「利」を占めているのでしょうか。
中国はいずれ日本の5倍6倍という巨大な経済大国になるでしょうが、発展モデルに多くの問題を抱えており、日本の技術やノウハウがさまざまな領域で望まれています。たとえば公害対策。中国の環境問題は、そのまま日本の環境問題になります。昨今のPM2.5問題など、あまりに明らかな現象ではないでしょうか。
1972年9月29日に北京で結ばれた「日中共同宣言」には、こうあります
日本国政府及び中華人民共和国政府は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に両国間の恒久的な平和友好関係を確立することに合意する。
両政府は、右の諸原則及び国際連合憲章の原則に基づき、日本国及び中国が、相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し、武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する。(http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/nc_seimei.html)
日本の政治家も中国の政治家も、おのれの「理」に拘泥(こうでい)することなく、真の発展と安定のため、大きな「利」にこそ着目し、経済交流と貿易交流を進め、民間交流を支援し、「不戦の誓い」を改めて心に刻み、せめて、両国市場で成功を目指す勇気ある数多(あまた)の企業家の邪魔をせぬよう、ぜひよろしくお願いしたいと思います。(執筆者:薄田雅人 提供:中国ビジネスヘッドライン)
先日、テレビで、高名なマイケル・サンデル教授がコーディネーターを務める討論番組(BS1スペシャル マイケル・サンデルの白熱教室「日中韓の未来の話をしよう」)をたまたま見ました。
china,column
2014-05-20 10:45