『孔乙己』を読む(六) 魯迅小説言語拾零(24)

日本語と中国語(407) (49)“温两碗酒”なぜ2杯注文した?   姓が「孔」であるところから、習字の練習帳の初めの「上大人孔乙己」という分かるような分からないような文句から、からかい半分に「孔乙己」というニックネームをもらった彼が、いつもの汚れてボロボロになった、まるで10年以上も繕ったり洗ったりしたふうのない長衣を着て、きょうも咸亨酒店にやってきました。   短衣を着た立ち飲みの連中が早速、“孔乙己、你脸上又添上新伤疤了!”(孔乙己、おまえさんの顔にまた新たしい傷がふえたな)とからかいます。またよそ様の物を盗んで殴られたのだろうと言うのです。いつものことなので孔乙己は取り合おうとはせずにカウンターの内側に向かって酒を注文します。“温两碗酒,要一碟茴香豆”(2杯温めてくれ、それから茴香豆(ホイシアンドウ)を1皿な)と言って酒を注文し、銅銭を9枚並べます。   この注文のしかたが面白いですね。カウンターの内側にはいつでも燗ができるように湯が用意されていることは、すでに見たとおりです。紹興酒は温めて飲みます。でも、なぜいきなり2杯注文したのでしょうか。これにはわけがあります。通常の燗徳利はちょうど碗に2杯分の酒を温める大きさに出来ているのです。もちろんそんなことを下戸のわたくしが知っているはずがありません。これも先の周作人さんの本に書いてあることです。よほど粋な客でない限り1杯、つまり徳利に半分だけ温めてくれなどという注文のしかたはしないわけですね。先回りして言いますと、後に盗みをはたらいて足をへし折られた孔乙己がいざりながら店にやってきて、握りしめた銅銭4枚を出して1杯だけ注文しますが、その銅銭がやっとのことで工面したものであることがわかります。   1杯が銅銭4枚ですから2杯で8枚、それに茴香豆が1皿で銅銭1枚、合わせて9枚。勘定は合っていますね。ここのところ、原文は“便排出九文大钱”となっています。注文した後、すぐに“大钱”つまり銅銭9枚をカウンターの上に並べています。飲み終わった後、帰り際に「お勘定」とか「なんぼや」とか言って、おっと中国ですから“结账”でしょうか、それとも今風の“埋单”でしょうか。紹興あたりではどう言うのでしょうね。とにかく、飲み終わって帰り際に払うのではなく、払ってから飲んでいますね。まさか奥の間の長衣を着た上客はこんなふうな飲み方はしないのでしょうが、はっぴを着た立ち飲みの連中は先払いをすることになっていたのかもしれませんね。西部劇などを見ていますと、さっとかっこよくコインを投げ出してウィスキーかなんかを注文していますが、あれと同じでしょうか。余計な詮索ですが、ああいう場面は必ずコインであって、お札が出てこないのはどうしてでしょうか。まあいずれにしても孔乙己とジョン・ウェインやカーク・ダグラスとでは、だいぶ違いますね。 (50)竊書(せっしょ)は偸(ぬす)みとは申さん   取り合おうとしない孔乙己に酔客はなおもからんできます。「おれはこの目で見たんだぞ。おまえが何(ホー)家の本を盗んでさ、吊るされてぶたれるところをな。」   これに対する孔乙己の言い訳がふるっています。    窃书不能算偷……窃书!……读书人的事,能算偷吗?(竊書(せっしょ)は偸(ぬす)みとは申さん……竊書はな。……読書人のすることで、偸みとは申さんのじゃ。)   あとはもう「君子もとより窮す」とか、「何とかであらんや」とかの難しいことばで、周りの人々はこれを聞いてどっと笑いこけて、店の内外は賑やかな空気があふれるのであった。 (執筆者:上野惠司 編集担当:水野陽子)
姓が「孔」であるところから、習字の練習帳の初めの「上大人孔乙己」という分かるような分からないような文句から、からかい半分に「孔乙己」というニックネームをもらった彼が、いつもの汚れてボロボロになった、まるで10年以上も繕ったり洗ったりしたふうのない長衣を着て、きょうも咸亨酒店にやってきました。  
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2014-05-28 10:00