『孔乙己』を読む(九) 魯迅小説言語拾零(27)
日本語と中国語(410)
(56)怎的连半个秀才也捞不到呢?
よその家の本を盗んでぶたれるところを見たと言われて、顔を真っ赤にし、額に青筋を何本も立てて「竊書(せっしょ)は偸(ぬす)みとは申さん」だの、「君子は固(もと)より窮す」だのと、弁解に大わらわになった孔乙己であるが、やがて半杯ほど飲むと、さっき赤らめた顔の色は次第に元の色に戻る。
すると、傍らの男が口を出す。“孔乙己,你当真认识字吗?”孔乙己、おまえほんとに字を知ってるのかい?孔乙己はその口を出した男を見ながら、相手になるのも大人気ないという表情を見せる。すると彼らは追い打ちをかける。“你怎的连半个秀才也捞不到呢?”おまえ、どうして秀才の卵にもなれなかったんだい?
上に竹内訳を借りて、仮に「秀才の卵」とした“半个秀才”、実はよくわからない。「秀才」とは科挙の府県段階の予備試験の合格者の称であるから、“半个秀才也捞不到”とは、試験に落ちて「秀才」の資格を手に入れることができなかったことを言っているに違いない。“捞”は「すくいとる」という意味で、転じて不当な手段で手に入れることをいうのによく使われるが、科挙などとは無縁の一般庶民の眼には「秀才」の資格などというものは、僥倖(ぎょうこう)もしくは何か胡散(うさん)臭い手段を弄して手に入れるもののように映っていたのに違いない。
なお、“半个秀才”については、もう20年以上も前に『孔乙己』に注釈を施してテキストに編んだ時、多少は調べたうえで、「“秀才”の試験には受からなかったが、成績優秀であったため、次回の下級段階の試験を免除された者」としたが、ちょっと自信がない。確かにそのような制度があったようだが、ここは或いは“连半个…也”を単純に強調形式として、“连一个…也”と同じように使っていると読んだほうがよいのではという気もする。だとすれば「秀才の卵」などとせずに、「秀才にさえ」とすればいいわけですね。でも、そう言い切る自信はありません。という次第で、頼りない話ですが、暫くは保留ということにしておきましょう。
(57)茴香豆的茴字,怎样写的?
いずれにせよ、“你怎的连半个秀才也捞不到呢?”という追い打ちは、孔乙己にとっていちばん触れられたくないところに触れられたわけで、すっかりうちしおれてしまい、後は例の“之乎者也”(なりけりべけんや)式のわけのわからないことばを口ごもるばかりです。そこまで孔乙己を追い詰めておいて、周りはみんなでどっと笑い、店の内外は明るい空気に包まれるというのですから、なんとも残酷な話ですね。
孔乙己のほうもこんな連中とは話相手になれないと心得ていて、こんどは子供である「私」に話しかけてきます。“你读过书吗?”おまえ、字を習ったことがあるかね。私がちょっとうなずくと、こう尋ねます。
“读过书,……我便考一考。茴香豆的茴字,怎样写的?”(習ったことがあるなら、……わしがひとつ試験してやろう。茴香豆の茴の字はどう書くかね。)
私は内心こう思った。乞食同様の人間が,私を試験するなんて。それでそっぽを向いて、相手にならないでいた。すると、孔乙己は長いこと待ってから、とても親切な口調でこう言います。“不能写罢?……我教给你,记着!这些字应该记着。将来做掌柜的时候,写帐要用。”(書けないのかな?……教えてやるから、覚えておくのだよ。こういう字は覚えておかなくちゃいかん。いつか店の主人になった時、帳面をつけるのに要るからね。)(執筆者:上野惠司 編集担当:水野陽子)
よその家の本を盗んでぶたれるところを見たと言われて、顔を真っ赤にし、額に青筋を何本も立てて「竊書(せっしょ)は偸(ぬす)みとは申さん」だの、「君子は固(もと)より窮す」だのと、弁解に大わらわになった孔乙己であるが、やがて半杯ほど飲むと、さっき赤らめた顔の色は次第に元の色に戻る。
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2014-06-18 10:00