『孔乙己』を読む(十一) 魯迅小説言語拾零(29)
日本語と中国語(412)
(60)多カランヤ、多カラザルナリ
店の主人や客が孔乙己を「さかな」にして笑いこけているその笑い声を聞きつけて,子供たちが集まってくることもしばしばあった。子供たちのお目当ては茴香豆(ういきょうまめ)である。例の1杯が銅銭4枚の紹興酒のほかに、もう1枚奮発すれば1皿出てくるというつまみの茴香豆ですね。孔乙己は彼らに1粒ずつ与えます。
子供たちは豆を食べ終わっても立ち去ろうとはせず、“眼睛都望着碟子”、眼をじっと皿の方へ向けています。“碟子”は豆の入った小皿ですね。
孔乙己着了慌,伸开五指将碟子罩往,弯腰下去说道,“不多了,我已经不多了。”直起身又看一看豆,自己摇头说,“不多不多!多乎哉?不多也。”于是这一群孩子都在笑声里走散了。(孔乙己は慌てて、5本の指を広げて皿を覆い、腰をかがめて、「もうない、もうそんなにないんだよ」と言い、それからまた腰を起こして豆をちょっとのぞいてみて、首を振りながら言います。「もうない、もうない。多からんや、多からざるなり。」するとこの一群の子供たちはワッと笑い声を立てながら立ち去っていくのであった。)
子供たちが立ち去ったのは、もちろんもうこれ以上待っても豆はもらえそうにないということもありますが、ワッと笑い声を立てているのは、孔乙己の口から出た、期待していた“多乎哉?不多也。”というわけのわからないことばを聞いて満足したからですね。
(61)吾レ少クシテ賤シ、故ニ鄙事ニ多能ナリ
“多乎哉,不多也”という語は『論語』の子罕篇に出てきます。
ある国の大宰(たいさい)(首相に相当)が、孔子の弟子の子貢(しこう)に「夫子聖者與,何其多能也」(あなたの先生の孔子はまるで聖者ですね、じつにいろいろな才能を持っていらっしゃる)と尋ねたことがあります。ここの「聖者」、ちょっとわかりにくい語ですが、何でも出来る人、つまりスーパーマンといったところのようです。後日、これを聞いた孔子は、「大宰知我乎,吾少也賤,故多能鄙事」と答えています。大宰ハ我レヲ知レルカ。吾レ少(わか)クシテ賤(いや)シ、故(ゆえ)ニ鄙事(ひじ)ニ多能ナリ。大宰は私のことをよく知ってくれているね。私は若いころ貧乏であった、だからつまらないことがいろいろ出来るのだ。
吾レ少クシテ賤シ、故ニ鄙事ニ多能ナリ。わたくしの好きなことばです。わたくしも少々貧乏の経験があります。だからそろばんの級だか段だかを持っていますし、ガリ版を切ることも、クリップなんて便利な物がなくても、こよりを縒(よ)って書類を綴じることもできます。タイプライターも使えます、和文も英文も。もっとも、パソコンは使えませんがね。これは裕福になってから流行りだした機械ですから、ということにしておきましょうか。
「吾少也賤,故多能鄙事」に続くことばが、「君子多乎哉,不多也」です。君子ハ多カランヤ、多カラザルナリ。君子たるもの、多能である必要があるであろうか、いやいやそんなことは必要としない。
と、読むのが一つの読み方で、わたくしもそれに従っていますが、大宰の問いをもっと皮肉っぽく、「あなたの先生はこまごまとした事がいろいろおできになるようですが」と解する読み方もあるようです。
まあいずれにしても、「多乎哉,不多也」を子供を相手に豆の数を言うのに使うのは、場違いも甚だしいですね。孔乙己の学問がどの程度のものであったかを、先の「回の字の四つの書き方」とともに、よく描き出しています。(執筆者:上野惠司 編集担当:水野陽子)
店の主人や客が孔乙己を「さかな」にして笑いこけているその笑い声を聞きつけて,子供たちが集まってくることもしばしばあった。子供たちのお目当ては茴香豆(ういきょうまめ)である。例の1杯が銅銭4枚の紹興酒のほかに、もう1枚奮発すれば1皿出てくるというつまみの茴香豆ですね。孔乙己は彼らに1粒ずつ与えます。
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2014-07-02 00:00