戦時関連の紛争から中国の時効制度を考える

今年(2014年)4月19日、浙江省にある商船三井株式会社の船舶が差し押さえを受けました。この差押について、日本のマスメディアの多くは、中国の戦時徴用工問題に絡めて中国が日系企業に対して今後も戦時中の責任を追及してくる、中国進出の大きなリスクの象徴として報道したり解説しました。
確かに、海外に巨額の投資をするに際してリスクの分析は必須でしょう。戦時中の行為と関連する事実関係がある日系企業であれば、韓国及び中国では、徴用工の問題などで提訴されるリスクがあるのは厳然たる事実ではあります。
もっとも、日中投資保護条約(投資の奨励及び相互保護に関する日本国と中華人民共和国との間の協定)があるわけですから、日系企業であるからといって、理由なく財産を没収されるという発想は、余りにリスクを現実から離れて過大評価する姿勢であり、経営判断としては情緒的に過ぎるともいえます。戦時中の行為と無関係の多くの日本企業まで、分析をせずに一律に中国投資を避ける姿勢は、海外進出の最も適したベストな方法を見誤る一因となりかねません。
冒頭述べた今回の商船三井株式会社の船舶差し押さえの事件も、正確に分析をすれば、あくまで一般の民事事件の論点に関して下された判決に基づく執行であり、形式的には戦争に関連した論点の判断や事実の評価は表だってされているわけではありません。
三井商船の船を当時の日本軍が拿獲(だかく)したので、三井商船は契約違反をしたわけでないという反論については、証拠不十分であるとして拿獲の事実を認定していないため、実質的に戦争に関連した事実の認定がされたと評価することも可能です。しかし形式的な論点は全て法律の範囲の話であり、民事の事件と評価できます。
■2.何故時効で訴訟提起が却下されなかったか
ここでやっと本題になりますが、この三井商船の船の賃借の契約が締結されたのは70年以上の昔の話であるので、すでに「時効」なのではないかいう発想を持つ方もいるかもしれません。
この点、今回の事件は以下のような中国の時効制度の間隙を縫って提訴された経緯があります。
まず、中国の時効を含めた民法制度が施行されたのは1987年1月1日からです。中国の時効は2年(身体への傷害など一定の場合は1年)であるところ、それより以前に発生した権利が全て遡って消滅してしまったことになるのは不都合です。そこで、それより以前に時効が到来していた請求権の訴追は、1987年から2年間(1988年中の訴訟提起)認めるという対応がされたのです。
今回の三井商船への訴追は、その期間中に提訴されており、時効の争点について、特別なイデオロギーで解決されたのではないことは明らかです。この点からも、この事件が、中国における戦時損害賠償の問題に直接インパクトを与えると考えるのは尚早に思われます。
では今後中国で起こされる同様の日中戦争絡みの訴訟は、全て消滅時効が到来したとして請求が却下される(日本と異なり実体法上の権利が消えるわけではありません)かといえば、そう単純な問題でもありません。
■3.日本の戦時徴用工に関する判例・裁判例
実は、中国より前に日本の法廷において、戦時徴用工の権利について消滅時効の援用(日本では実体法上の権利なのでこのように記載します)が権利乱用であるとした判例があるのです。
広島高等裁判所が、平成16年7月9日に下した判決では、消滅時効の援用が信義に反し権利の濫用にあたるとして、中国人による強制連行に対する戦後補償を請求する主張に対する消滅時効の抗弁が排斥されました。
戦後補償裁判としては高等裁判所レベルで初めての認容判決といってよく、それまでの同様の裁判例では消滅時効の援用を認めてきたため、大きな影響のあった判決です。
その後の最高裁では、請求は棄却(中国人原告が敗訴)されましたが、これは日中共同声明第5項を根拠に裁判上訴求する権利を失ったとの判断に基づく判決でした。
高等裁判所の時効の判断の部分は、特に最高裁では触れられていなく、時効の援用が信義則に反して権利の乱用にあたると判断したといえるか否かは、判断が分かれますが、高等裁判所が判断をした消滅時効に関する点を敢えて否定していないことから、日本の裁判所は、時効の援用が出来ないという立場をとっていると評価することは十分に可能です。
法体系は異なりますが、中国で今後起こされうる戦時徴用工などの企業を相手にした戦後補償請求の裁判において、日本の上記裁判例と同様の理論の立場を中国の人民法院(裁判所)がとる可能性は十分にあります。特に中国民法の通則第137条では、「特別な事情のある場合には、人民法院は訴訟時効の期間を延長することができる」としているため、この「特別な事情」の存在を認めて、時効の主張を排斥する可能性は十分あるといえます。
結局は、日中共同声明第5項で個人の請求権まで排されるかどうかが判断の分水嶺になると推定されますが、中国の裁判所がどのように判断するか前例もなく、三権分立制度ではない中国では多分に政治的な論点といえますので、ここでは触れません。
このように消滅時効というのは、請求権が行使できなくなる(日本では消滅する)影響の大きい制度であるため、留意しなければならない制度です。
■4.中国と日本の時効制度の比較
しかし中国の時効制度は、日本の時効制度と異なるところ点が多くあります。簡単に図のとおりにまとめてみました。
まず必ず留意しなければならないのは、中国においては債権の消滅時効は2年とされている点です。例外はありますが、1年の短期の消滅時効しか民法上は規定されていません。一般の債権が10年、商行為による債権が5年を基本とする日本の制度に比べて、債権の消滅時効が短く管理には細心の注意が必要です。
一方で、時効期間の計算が一からに戻る「中断」については、中国のほうが裁判外の請求で認められるため、より容易といえます。つまり、中国の消滅時効の制度は、期間が短い一方で、中断も比較的容易にできるため、債権管理に留意していれば、時効で債権が消滅してしまったということは防ぎうるのです。
それではどのような債権も2年で訴訟を提起できなくなるかというとそうではなりません。中国に関わるビジネスパーソンが特に知っておくべき例外として、残業代を含む労働報酬債権の消滅時効が挙げられます。
■5.労働関係の紛争と時効
労働紛争調停仲裁法においては裁判より前に労働仲裁を起こす必要があります。この労働仲裁が提起できる時効期間は1年とされています。但し、労働報酬の支払の遅滞に起因する紛争(残業代も含まれると解されます)については、この制限を受けません。但し労働関係が終了した場合は1年以内に申立てをしなければならないとされています。
これは何を意味しているかというと、もし貴社が残業代を支払わずに10年経過後に従業員から残業代を請求された場合、時効の主張で対抗することは出来ないということです。但しこの従業員が退社から1年が過ぎていればこの限りではありません。
このように時効というのは、本来の権利を社会的な理由から消滅させるという一種の法的フィクションですから、国や社会の在り方によって大きく形が異なりうる制度です。ビジネスに直結する制度ですので、中国では時効は2年であるが裁判外の請求で中断しうるという点だけでも頭の片隅に入れておいてください。(執筆者:東城 聡 提供:中国ビジネスヘッドライン)
今年(2014年)4月19日、浙江省にある商船三井株式会社の船舶が差押を受けました。この差押について、日本のマスメディアの多くでは、中国の戦時徴用工問題に絡めて中国が日系企業に対して今後も戦時中の責任を追及してくる中国進出の大きなリスクの象徴とする報道や解説が多くされました。
china,column
2014-07-29 10:15